御祭神
大鷦鷯尊オオサザキノミコト 呉服クレハトリ
呉服神社の御由緒
大阪府呉服の里にかしこくも鎮座まします
日本最初機織裁縫の祖神呉服大神の御由緒を申述べます。
阿知王 海を渡る
遠く人皇十六代応神天皇の御宇、阿知使主(あちのおみ)都知使主(つかのおみ)の父子が天皇の勅命によりそれまで日本で生産する事の出来なかった機織り染色の技術を導入する為、中国の呉の国へ渡ったのであります。
渡航にあたり高麗国に至れども先の道がわからず、高麗国の王に乞うて久礼波、久礼志と云う二人の案内人を副えていただいた。
これにより呉の国に無事趣く事となり、呉王に乞うて呉服、綾織、兄媛、弟媛の高い染織技術を修めた四人を譲り受け渡来する事となりました。
織姫たちを迎える
海路つつがなく、先ず九州筑紫潟に着きましたが、筑紫の国の宗像明神のお望みで兄媛だけこの地に留まる事になりました(福岡県福津市 縫殿神社)。
他の三媛はまた海路はるばる船旅に立ち、時に応仁天皇41年摂津国の武庫の浦(西宮)にお着きになられ、更に今の猪名川を遡り猪名の港に機殿を建ててお迎えする事となりました。
池田市に沿って流れる猪名川は大阪と兵庫の境をなし国道に呉服橋が架かっております。
更に呉服橋を上流に上ると絹延橋があり、その中間地を猪名の港(唐船ヶ淵)と云います。
また織女たちが糸をお染になった処を染殿井と云い、今の日清チキンラーメン館の裏辺に跡地があり、その糸を掛け晒された秦山山頂にひときわ高く聳える老松(絹掛の松)は現在も池田カントリークラブ側に名残りをとどめております。
呉服の里で機を織る
織女たちはこの地にて昼夜怠ることなく布帛を織られ、この時より機織裁縫の技術が我国に伝わり、男女貴賤、また四季折々の衣服が施される事となりました。
呉服(くれはとり)は仁徳天皇76年9月18日にお亡くなりになり、その功績を称え御身体を今にその跡残す姫室(呉服神社境内)に、御霊を翌年に御神祠(呉服社)を建てお祀りする事となりました。
謡曲 呉服(くれは) 世阿弥(1363~1443)室町時代
「まづこの里を呉服の里と名付け初めしも何故ぞ われこの所に在りし故なり・・・。」
帝に仕える臣下(わき)が摂津住吉の社から西宮へ向かおうと呉服の里を通りかかったところ機を織る織姫達に出会うお話。
この物語自体はフィクションでありますが、此の頃には織女たち始め‟呉服の里“の存在と広まりを感じ取ることが出来ます。
秀頼公 呉服神社を再建す
醍醐天皇の御代延長年間、兵乱で炎上神地を失い僅か三戸なりましたが、円融天皇の御代天禄2年辛羊に鎮守守府将軍源光仲公が社祠を修復、更に年月経て天正6年(1579)北摂一円を渦中に巻きこんだ伊丹城主荒木村重の乱により本殿始め建物、資料など大半を焼亡。
しかしながら後陽成天皇の御代慶長9年甲辰(1604年)に豊臣秀頼公が片桐且元を奉公として再建の事となり、現在の本殿はこの時に建てられたものであります。
後、文政2年には有栖川宮殿下の御祈願所となりました。
阪急電鉄設立にあたり境内の大幅な整備拡張へ
明治42年箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)を設立するにあたり、軌道敷設にあった神社の丑寅方角40間の姫室を呉服神社境内へ移し、姫室跡地を室町と名づけ日本初の分譲住宅地が出来る。
また同時に現池田駅にあった天満宮を呉服神社境内へ合祀致す。
因みに明治33年に栄町商店街先のえびす社が境内に合祀され現えびす祭りが始まる。
現在の朱色の拝殿は大阪万博の前年昭和43年に建替工事されたもので、拝殿正面のステンドグラスはこの時に設置されました。
尚、呉服神社は‟くれはじんじゃ"と読み、御祭神の呉服は‟くれはとり”と申します。
古事記には「呉服」、日本書紀には「呉織」とあり、何れも「くれはとり」と読みます。
「くれは」という言葉は「呉(くれ)服(はとり」がつづまったものと云われております。
和歌にみる『くれはとり』
後撰和歌集/巻第十一恋三 七一二 清原諸実
『くれはとりあやに恋しくありしかば二村山も越えずなりにき』
意:ひとえに貴女が恋しかったので,御贈りした二疋(ふたむら)の布ではありませんが,二村(ふたむら)山も越えずに帰って来る事になりました
金葉集の恋歌
『逢い見んと 頼むればこそ くれはとり あやしやいかが 立ち還るべき』
玉葉集の七夕の項に
『稀れに逢う 秋の七夕の くれはとり あやなくやがて 明けぬこの夜は』など
「織物の綾」から、「あや」・「あやに」・「あやし」にかかる枕詞にもなっている。
また「あやはとり」と併称されるからだともいう。
◇あやに 言いようがないほど。不思議なまでに。むしょうに
◇あやなく アヤナシは、筋道が通らない、意味がわからない、むなしい、などの意。
西宮市に残る昔話
西宮市には昔から伝わるお話として“武庫のみなと”、‟染殿の池“、”おしりをつねられたえびすさま“等が現在も残っております。
‟武庫のみなと”は織女達が摂津国の武庫の浦にお着きになられ頃の港の賑やかな様子を、‟染殿の池“では織女たちが故郷から離れたこの地で寂しいながらも懸命に機を織る姿が描かれております。
西宮デジタルアーカイブふるさと昔話で閲覧出来ます。
染殿の池
むかしむかし、武庫の海には、たくさんの船が出入りしめずらしい外国の品々が陸上げされるにぎやかな港がありました。
そこには、すぐれた知識や技術を持った人々も、大陸から海をわたってやって来ました。
ある日、この港へ一そうの中国の船が着きました。
その船には若くて美しい2人のおとめが乗っていました。
年上のおとめの名はアヤハトリ、年下のおとめはクレハトリと言いました。
二人は見事な機織りをするので、この国の役人がはるばる中国から連れてきたのでした。
ところが、港でアヤハトリとクレハトリを待ち受けていたのは、思いがけない知らせでした。
「都では、おまえたちを呼び寄せた方が亡くなられた。もう連れてくるにはおよばないとのことだ。」
そう言い残すと、役人はあわただしく都へと旅立っていきました。
船旅のつかれをいやす間もなく見知らぬ土地に取り残されたアヤハトリ・クレハトリは、どれほど心細く思ったことでしょう。
松の木にもたれて海のかなたをながめ、故郷をこいしがる日々が続きました。
ある日、アヤハトリが言いました。
「クレハトリ。もうなげくのはやめましょう。
機織りの大好きなわたしたちには、機さえ織れればそこが都なのですよ。
ほら見てごらん。冷たい水のわき出す池もあるでしょう。
あの池なら糸も色あざやかに染め上がることでしょう。
さあ、元気を出して、機を織りましょう。」
これを聞いてクレハトリの心も晴れてきました。
「そうですね。糸を五色に染めて、故郷の錦や綾を織りましょう。」
機の歌うようなひびき、杼が走り浮かび出てくる故郷の模様、織り上がった時のうれしさ・・・・・それらを思うと、おりひめの血は熱く燃え上がるのでした。
池のほとりに建てられた小屋から、軽やかに機を織る音が聞こえはじめました。
また、きれいに染めた糸や布を池のほとりに干す姿も見られました。
この土地の人々は、今まで見たこともないような美しい染め物や織物に、感嘆の声をあげました。
多くの人々がここをおとずれ、おとめたちのすばらしい仕事ぶりをほめたたえました。
人々は、糸を染めた池を、おとめたちにちなんで「染殿の池」と名づけました。
また、おとめたちの名は津戸綾羽町・津戸呉羽町の町名となって今でも残っています。
西宮デジタルアーカイブふるさと昔話で閲覧出来ます。